LOGINレインからの返事が届いたのは、五日後だった。
今回は、いつもより短かった。 一枚だけ。エリナへ
覚えている。 一年後の約束の日の夜に、ゆっくり話がしたい。数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを。 俺が言った約束だ。忘れるはずがない。 それから、一つだけ言う。 『覚えていますか』と聞いてくれた。聞いてくれて、よかった。 俺も、聞きたかったことがある。でも、どう聞けばいいかわからなかった。 お前が聞いてくれたから、俺も聞く。 一年後の約束の日、その夜に話したいことの中に、お前のことが入っている。報告でも情報でもない、お前自身のことが。 それを話せる場を、一年後に作りたい。 今はそれだけ言う。 残り、もうすぐ二ヶ月を切る。 ――レイン――エリナは手紙を読み終えた。
すぐには、何もしなかった。 手紙を机の上に置いて、少しだけ窓の外を見た。 冬のルシェムの空は、今日は曇っていた。 お前自身のことが、入っている。 それを話せる場を、一年後に作りたい。 エリナは、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。 整理しようとした。 できなかった。 前世でも今世でも、エリナは情報を受け取ると整理する。構造を見つける。言語化する。それが習慣だった。 でも、今日は整理できなかった。 整理できないことに、最近は慣れてきていた。 でも、今日は少し違う種類の「整理できなさ」だった。 心臓が、少しだけ早く動いていた。 気づかないふりをしようとして、できなかった。マリオが昼前に事務室に顔を出した。
「何かあったのか?」 「何も」 「嘘だ。顔が違う」 「どう違いますか?」 「いつもより、少し……なんだろうな。赤いってわけじゃないけど、なんか違う」 「気のせいです」 「気のせいじゃない。ゴードンさんも、今日のエリナは少し様子が違うって言ってた」 「ゴードンさんまで」 「で、何があった?」 エリナは少しだけ考えた。 言うかどうか。 マリオは、こういう話を黙っていられる人間ではない。でも、責めているわけではない。 「レインから手紙が来た」 「ふうん」 「一年後の約束を覚えているか? と聞いたら、覚えていると返事が来た」 「それだけか?」 「それだけじゃない、かもしれない」 マリオがしばらくエリナを見た。 何かを言いかけて、止まった。 それから、ただ頷いた。 「そうか」 「うん」 「まあ、それだけわかれば十分だろ」 「何が十分なんですか」 「お前が、ちゃんとそういうことを感じてるってこと。前のお前なら、全部整理して、情報として処理して、終わりにしてたと思う」 「今も整理しようとしました」 「でも、できなかっただろ」 「……できなかった」 「それが、十分だと思う」 マリオがそれ以上は何も言わずに、事務室を出た。午後、エリナはゴードンとの作業を進めながら、頭の半分で別のことを考えていた。
レインが言った。 『お前自身のことが、入っている』 お前自身のこと、とは何か。 エリナは、自分が「お前自身」として何者なのかを、整理しようとした。 エリナ・アッシュフォード。八歳。 前世では篠原あかり。二十八歳で亡くなった。エンジニア。料理が好きだった。 この世界では、没落した侯爵家の娘。魔法の適性がない。石鹸を作った。薬草薬を広めた。商会を立てた。 でも、レインが言った『お前自身のこと』は、そういうことではない気がした。 数字でも、肩書でも、実績でもない、「お前自身」。 それが何なのか、エリナには、まだうまく言葉にできなかった。 でも、一年後の夜に、レインに話してみたいと思った。 言葉にできなくても、話してみたいと思った。 それは、これまでエリナがあまり感じなかったことだった。夕方、ルナが薬草の棚を整理しながら、珍しく先に話しかけてきた。
「エリナ」 「何?」 「今日、手紙が来た?」 「来た」 「レインから?」 「そう」 「よかった」 「何がよかったの」 「エリナが、少し違う顔をしてるから」ルナが棚から目を離さずに言った。
「悪い顔じゃない。でも、いつもと違う」
「みんなに言われる」 「みんなが気づくから、みんなが言う。それは、よいこと」 「よいこと、ですか」 「エリナが何かを感じてるのが、見えるということだから」 エリナは少しだけ、ルナの横顔を見た。 「ルナは、どうしてそういうことがわかるの?」 「わからない」 「でも、言える」 「見てるから。エリナのことを、ずっと見てる」 エリナは、その言葉を受け取った。 ルナが「ずっと見てる」と言った。 この子はいつも、少ない言葉で、本当のことを言う。 「ありがとう」 「どういたしまして」夜、エリナは机に向かった。
返事を書こうとして、何度か書き直した。 初めて、返事が難しかった。 難しい、というのは、書くことがないわけではない。書きたいことが、多すぎた。 でも、何を書けばいいか、わからなかった。 『覚えている』と言ってくれた。 『お前自身のことが入っている』と言ってくれた。 『それを話せる場を作りたい』と言ってくれた。 それに対して、何を返せばいいのか。 エリナは少しだけ、前世の記憶を辿った。 二十八年間、エリナ——篠原あかりは、誰かにそういうことを言われた記憶が薄かった。仕事の話なら、いくらでも返せた。でも、「あなた自身のことを話したい」と言われた時に、どう返せばいいか、わからなかった。 今も、わからない。 でも、わからなくても、何かを届けたかった。 紙を取り直した。レインへ
『覚えている』という言葉を受け取った。 『お前自身のことが入っている』という言葉も、受け取った。 正直に書く。どう返せばいいか、わからなかった。いつもは、考えれば言葉が出てくる。でも、今日は何度か書いて、全部やり直した。 それが答えかもしれない、と思った。 言葉にできないことが、ある。でも、あることは確かだ。 一年後の夜に、話したいと思っている。言葉にできないことも含めて、話してみたいと思っている。 それが今まで、私にはあまりなかったことだ。 一つだけ、今夜届けたいことがある。 あなたが『覚えている』と言ってくれた。それで、何かが少し変わった気がする。何が変わったかは、まだわからない。でも、変わった。 残り、もうすぐ二ヶ月を切る。 ――エリナ――書いて、封をした。
いつもより時間がかかった。 でも、書けた。 整理できていない部分が、まだたくさんある。 でも、整理できないことを、「整理できない」と書けた。 それが、少し前のエリナにはできなかったことだと思う。机の上に、一通の封筒が置いてある。
窓の外は、まだ曇っていた。 夜の雲は、月を隠していた。 でも、厚い雲ではなかった。 エリナは窓の外を少しだけ見てから、布団に入った。 今夜は、眠れるかどうかわからなかった。 でも、それでもいいと思った。 眠れなければ、考える。 考えることが苦しくない夜なら、眠れなくてもいい。 今夜は、考えることが苦しくなかった。翌朝、エリナは早く起きた。
台所に行くと、セレーナが先にいた。 エリナを見て、少しだけ目を細めた。 「おはよう」 「おはようございます」 「昨夜、眠れた?」 「あまり」 「そう」セレーナが薬草茶を注いでくれた。
「でも、顔色は悪くない」
「そうですか」 「うん。いい顔をしてる」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 マリオが『違う顔』と言った。ルナが『悪い顔じゃない』と言った。ゴードンが『様子が違う』と言った。セレーナが『いい顔』と言った。 全員が、別々に、同じ方向の何かを感じている。 「お母さん」 「うん」 「一年後の報告が終わったら、少しゆっくりしようと思う」 「そう」セレーナが少し驚いた顔をした。
「エリナが、そういうことを言うの、珍しいね」
「珍しいですか?」 「うん。いつも次のことを考えてるから」 「次のことを考えていない、というわけではない。でも、少し、ゆっくりしたいと思った」 「いいと思う。ゆっくりしてほしい」 薬草茶が、温かかった。 ルシェムの朝は、今日も冷たかった。 でも、台所は温かかった。エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、『覚えている』という言葉を受け取った。 整理できないことが、ある。 でも、あることは確かだ。 残り、もうすぐ二ヶ月を切る。 一年後の夜が、近づいている。フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」 エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」
翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。 どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」 エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」 それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。 目が覚めた時、空はすでに明るかった。 珍しいことだった。 いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。 しばらく、布団の中でそのままいた。 これも珍しいことだった。 起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。 でも今朝は、少しだけそのままいた。 窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。 市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。 帰ってきた、と思った。 昨日も思った。でも、今朝も思った。 ここが、自分の場所だ。 台所に行くと、セレーナが先にいた。 「おはよう」「おはようございます」「よく眠れた?」「はい。遅くまで眠っていました」「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」「そうかもしれません」 薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。 冬の朝の空は、澄んでいた。 「お母さん」「うん」「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」「何?」「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」 セレーナが少しだけ手を止めた。 「それって、どういうことになるの」「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」「そうなるかもしれません」「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 エリナは少しだけ考えた。 「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」「この前も同じことを言ったわね」「同じこ
翌朝、エリナは早く起きた。 今日、ルシェムに帰る。 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。 全部、ある。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。 「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」「聞きますか?」「聞く。でも、今は聞かない」「なぜですか?」「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」「どんな顔をしていますか?」 ゴードンが静かに言った。 「昨日フィオナが見たかった顔」 出発前に、フィオナと二人になった。 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。 「フィオナ、これからどうするんですか?」「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」「そうですね」「でも、今日は違う話をしたい」「どんな話ですか?」「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」「ルシェムに?」「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」「来てください、必ず」「いつ行けるかはわからない。でも、行く」「待っています」 フィオナが少しだけ笑った。 「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」「言いました」「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」「そうかもしれません」「いい変化だと思う」 フィオナが手を差し出した。 エリナはその手を両手で握った。
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。 アルバ殿下が廊下で待っていた。 「よくやりました、エリナ殿」「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」「王都のデータは、効きましたね」 殿下が少し笑った。「右側の列が、ざわついた」「見えていました」「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 「殿下、商会の代表についてお願いがあります」「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」「ありがとうございます」「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。 師匠がエリナに言った。 「一つだけ言っておく」「はい」「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」「ぜひ」「クロヴェルへの返答だ」 師匠が静かに言った。「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。 「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」「届きましたか?」「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」 師匠が一歩退いた。 「俺はこれで失礼する。よくやった」「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」「礼
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。 眠れると思っていなかったが、眠れた。 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。 ルナが持たせてくれた葉を使った。 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。 王都の夜明け前。 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。 今日、謁見の間に立つ。 もう一度、確認した。 怖い。でも、届けたい。 それだけでいい。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく静かだった。 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。 「緊張してる」「フィオナが?」「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」「なぜですか?」「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。 「フィオナ」「何?」「今日、謁見の間に入れますか?」「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」「そうでしたか」「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」「どんな顔をしていると思いますか?」「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。 手紙が、ある。 フィオナが言った。 「今日の目標を、一つだけ確